最近は、以前宣言したように、健康にも気を使ったライフスタイルを送っております。なかなかな不摂生が続いていたので、さすがに自分の健康を自分で創っていかないとなと感じています。
ということで、ランニングしています。40分くらい、家の近くの野球場とサッカー場とかがあるスポーツセンターの大外をぐるぐると走っています。
まだまだ暑いですが、夜は結構涼しくもなっていていける感じです。ランニングマシーンで走るほうが多かったんですが、外を走ったほうが気持ち的にはいいですね。
というのも、走っているときに、いろんなことを考える時間になっています。ふと頭に浮かび、それを考えて…たぶん、気になっていることが頭から離れなくて、走ること以外できない環境だからこそ、脳みそがそれを考えるんですかね。
タイトルにもあるように、「自分の世界が広がる」ということについて、書きたいと思います。
どんな教育の機会を創りたいのか

ベネッセで働いて、日々学校現場にいきいろんな教育の最前線、現場のことに触れてきました。同様に、企業の研修とか人材育成、海外の教育、多様な学びの機会にふれてきました。
それゆえに、自分なりの教育や学びに対するイメージがふくれあがったり、いろんなことを感じるようになりました。
教育に関わるNPOとして活動をしていると、日々、本当に人に会う度に、どんな活動をしているのかを端的に話します。聞かれます。
”学び”というものを言語化して、目には見えないものを相手に伝わるように説明することに、日々悩まされるわけです。目に見えないもの、かつ体験したことのないものを、他人に説明するのって結構難しいですよね。簡単に伝わるものでもない。
いろんなコトバをさがしてきたんですが、ふと、今日ランニングをしているときに感じたのは、「自分の世界が広がる」ということでした。
世界は広いし、人は様々だし、いろんな文化がある。
最近では、
・どんどん多様化してきた
・変化が激しい時代
・スピードが早い
とかいろんなことがよく言われるようになったと思います。
以前と比べたらそうとも言えるのかもしれないんですが、個人的には、「世界は以前から多様だった」のではないかなと思います。大学進学だって、みんながみんな行っているわけではない、みんなが大企業に入って安定した生活を送っているわけでもない。
以前から個人事業主や自営業はいるし、農家さんだってパラレルワークをしていたんじゃないかなと思います。いろんなキャリアがあったのかと。
「正解がない時代」と言われますが、本当は、本当は、以前も正解なんかなかったのかなとも思ったりします。「誰かが正解を期待」していたり、「こうしておいたほうがいいからそれを選択する」みたいなことはあったのかと思いますが。
つまり、以前だって、これからだって、私たちは世界の全てを知らないし、自分のことだって知らないし、目の前の人のことだって分からない。分からないんです。
当事者意識
自分がいまみている世界。
その世界のみえ方が変われば、世界は広がると思います。
考えたこともなかったことを感じる。
明日、急に歩けなくなって車椅子になったら、世界はどうみえるのか。
明日、急に自分の会社が倒産したら、世界はどうみえるのか。
明日、宝くじがあたったら、世界はどうみえるのか。
明日、自分の大切な人が交通事故にあってしまったら、世界はどうみえるのか。
明日、海外の友人が暴動に巻き込まれて亡くなったら、世界はどうみえるのか。
いろいろな、つらいこと、不幸なこと、苦しいことが起きたとき、人が人生で大切にするものは変わるのかもしれません。
病気になって、初めて健康を意識したり。
体を壊してから、初めて仕事よりプライベートを大切にしたり。
でも、できればそういうつらい経験をする前に、少しでも豊かに、優しく、人生を生きていくことができたら、そんなことを教育の力でできたら、いいなぁなんて思います。
自分がみている世界が広がる
そんなことにつながるような、人のつながり、対話の時間、体験の機会、学びのきっかけを、これから創っていけたらなと思います。
じわじわと、一緒に少しずつ。
コメントを残す