どうも!
どうしても使いかけのノートの空きページをもったいなく感じてしまい、なんでもノートとして再利用してしまうなばためです。
(最近、ついに「使いかけノート」をすべて使い切り、晴れて新しいノートの購入に踏み切りました!)
今日は、ブログのネタを考える(思いつく)際には、2種類の頭の使い方している、ということについて書きたいと思います。
帰納と演繹
なんだか小難しい言葉なので、タイトルを見てそもそも読むことを避けられている可能性も大いにありますが…
ここまでたどり着いたあなたは、多かれ少なかれこういう小難しいことを考えるのが好きな人だと信じています。(笑)
こんなこと言ったからって、途中で読むのやめないでね、お願いしますm(__)m
帰納と演繹の辞書的な意味はこんな感じ↓
<帰納>
デジタル大辞泉
個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すこと。
<演繹>
一般的な理論によって、特殊なものを推論し、説明すること。
たぶん身近なところで聞き覚えがあるのは、数学的帰納法とかですかね。
高校生の時に習ったやつ。
数学は好きだったけど(決して得意とは言ってない。)、国語が嫌いかつ、苦手だった私は、「数学的帰納法」という字面を見ただけで苦手意識を持ちました。
まあ、ざっくりいうと、
東京で見たカラスは黒い。
京都で見たカラスも黒い!
ネパールで見たカラスも黒い!!
きっと、カラスっていう鳥は黒いんだ!!!
といった具合で、個別の事象から一つの普遍的な法則を推測するのが帰納。
一方で、
カラスは鳥である。(カラス=鳥)
鳥には翼がある。(鳥=翼をもった生きもの)
カラスは翼をもった生きものである!
というのが演繹。
A = B
B = C
ならば、
A = C である!
というように、理論式を組み立てて一つの結論を導きだす考え方です。

ブログを書く時には、帰納と演繹を使う!って言っちゃった
帰納と演繹については、なんとなくイメージしてもらえたかなと思います。
じゃあ、それが「ブログを書く」という行為とどうつながるのか。
実はとくに根拠もなく、なんとなくの直感で、
「ブログを書く時の頭の使い方には、帰納と演繹があると思うんだよね。」
的なことを言ってしまいました。
すみません。
でも、とりあえず言ってみたことで、そこからさらに考え、書きかけのブログを放棄して、新しい記事を書き始めているので、結果オーライとしましょう。
なんとなく考えていた、ブログをつくっていく際に使う帰納と演繹は、
<帰納>
日常生活の中での「気づき」をもとに、
「これ、他の人も同じ感覚なんじゃないか?」
「この体験と、あの時の体験って通ずる部分があるよね。」
といったふうに、自分の体験を起点に他のことにも共通する法則みたいなものを見つけていく考え方。
<演繹>
なぜ?どうして?という問いから仮説を立ててみて、それに当てはまる自分の体験や、見聞きしたことを連想していくという考え方。
といったものでした。
勘の良い方は、この時点で違和感を持っているかと思います。
そうなんです。
帰納に関してはしっくりくるのですが、演繹については、おや?っとなるのです。
私が当初イメージしていた「演繹」は、実際には演繹ではなく、単に自分の疑問から仮説を立てているだけにすぎません。
そこには、前提として普遍的な理論もなければ、誰もが納得する法則もないので、演繹ではなかったわけです。
これはあとから調べて知ったことですが(知ったかはしません)、私が「演繹」と思ってたものは、仮説を導き出す手法であるアブダクションとか、仮説演繹法とかの方がしっくりくる部分があるのかなと思いました。
(アブダクション思考については、こちらの記事もぜひ読んでみてください!)
仮説演繹法とは、個々の事象から仮説を提示し(帰納)、そこから実験可能な予測を立て(演繹)、予測の確からしさを実験によって確かめる手法のことらしいです。
これ以上踏み込むとちょっと話がこじれるので、アブダクションとか仮説演繹法とかを知りたい人はこのあたりを参考に↓
【仮説演繹法とは】具体例から特徴・問題点までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド
とまあ、「ブログを書くときには帰納と演繹を使う!」という私の仮説は、そもそも仮説としてハリボテだったわけでございます。(汗)
だいいち、演繹によって書かれたブログが面白いわけがないんです。
「A = B だよね。で、B = C 。だから、A = C でしょ。どう?」
はい、確かにそうですね。
でも、ブログに書いてもらわなくて結構です。
そう言って、数学の解答用紙を差し出されるでしょう。
それでも自分の仮説は正しいと証明したい

毎度しつこくてすみません。
でも、ここで諦めてしまうとタイトルに沿う内容にならないので。
演繹の意味を正しくとらえ直したとき、自分が最初に思い描いていた「ブログのネタを考えるときの帰納と演繹」には妥当性がないことに気づきました。
なので、ブログをつくっていくどの過程に「演繹」が潜んでいるのか、探すことにしました。
(プライドを捨てた。)
帰納に関しては、当初の考え方でも理解してもらえるかなと思います。
自身の体験、そこから得た気づきをもとに、一般に共通して言えることを導き出す。
ミスをさせない雰囲気か、ミスありきの雰囲気か
は、まさに帰納的な考え方で書いた文章です。
これらの個別の事象から、
「ミスはない方がいいけど、ミスありきで考えてた方がポジティブなエネルギーが生まれやすいのではないか」
という一つの推測にたどり着いた感じです。
では、演繹はどこに潜んでいるのか。
文章自体が演繹になっているブログは、何も面白くないということはわかりました。
きっと単調な文章になるし、そこには当然の結果しか返ってこないからです。
演繹をそのまま文章化したら単調になる。なら、それを逆手に取ったら?
そう考えてみたら見つけることができたんです、演繹の登場シーンを。
ブログを書く時には、伝えたいメッセージみたいなものがあります。
このメッセージ(主張)を見つける一つの方法として、
演繹的な考え方で論理を組み立て、それを疑ってみる
というものがあるのではないかと。
前回書いたお金の価値をつくり上げる過程には、
という論理がありました。これが演繹に当たる部分です。
最初から意図していたわけではないのですが、演繹で論理を組み立てていった結果、一つの疑問に行きついたのです。
「増やすことで頭がいっぱいだったけど、そもそもお金の価値ってなんだ?」
そして、前回の記事で一番言いたかった、
「お金の真の価値(本質)はコミュニケーションを生み出すことで、使う時に初めてその価値が発揮される」
というメッセージにたどり着きました。
つまり、演繹によって組み立てた論理に問いを投げかければ、単調を打ち破る主張を導き出すことができるのではないか、と。
こうして、何とか「ブログを書くときには帰納と演繹を使う!」という当初の自分の主張を裏付けることができたわけです笑。
(都合が良すぎる。)
でも、最初に「ブログを書くときには帰納と演繹を使う!」と思ったのは、普段物事を考える際には帰納も演繹も使うよなという感覚があったからで、今自分が書いている随筆というジャンルにおいては、あながちこじつけでもないのかなと思います。
随筆とは、
「事象と心象が交わるところに生まれる文章」
である。
「読みたいことを、書けばいい。―人生が変わるシンプルな文章術」 著:田中泰延 (ダイヤモンド社)
事象と心象の交点にたどり着くために、帰納と演繹は極めて重要なんじゃないかと。
そんなこと考えながら書いてまーす笑。
現場からは以上です。
<追伸>
帰納と演繹について考えたことで、次に書きたいと思うことに出会いました。
タイトルは、
「教科が生み出す分断から総合学習を考え直す」
とかですかね。
数学で習う数学的帰納法や集合などは、国語にも通ずるものがある気がします。
文章を書くときに、個別の経験と普遍的な法則をどう紐づけるかとか、Aという集合の具体例としてどの要素を提示するかとか。
数学の中に国語があるし、国語の中に数学がある。
理科や社会、体育や家庭科、美術にだって共通項はあるはず。
教科として分けることで、無意識のうちに分断が生まれている。
僕は理数系だから国語は苦手。
とかじゃなくて、本当にできる人は共通項を的確に捉えているから、教科に関係なくできる。
きっと私が苦手だったのは国語ではなく、そもそもの発想法とかの部分だったのでしょう。
だから、初見の数学の問題に手も足も出ない、みたいな。
では、また。
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