knowing, acting and being

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後藤 智

経営学の研究者。専門はデザインマネジメント。デザインシンキング、エンジニアシンキング、マネジメントシンキング、アートシンキングの違いと使い所を研究している。この観点から学校教育に対する思うことを書いていきます。

存在論と認識論の続き

前回の記事存在論認識論に触れたので、今回もその話をします。タイトルにある、knowing、acting、beingとは、「知ること」「行動すること」そして「自分自身の存在」を意味しています。教育においては、この3つはセットである必要があります。しかし、先に結論を言うと、デザイン教育の世界では、日本だけでなく、多くの国でknowingとactingのみを教えており、beingが考慮されていないと指摘されています。

さて、それではそれぞれを説明しましょう。

knowingとactingは難しくないですね。勉強して、知識を知って、その知識を使って行動するというつながりになります。
簡単に言うと、beingとは「あなたは何者なの?」という質問への回答ですね。be動詞は静的(static)ではなく、動的(dynamic)ですよね。つまり、I am …の「…」の部分次第で、「I」が変化するということです。「私は暇人です」「私は親です」「私は教員です」といったように。

さて、考えてみてください。この暇人と、親と、教員は一人の人間でも共存しますね。じゃあ、それぞれの立場からある知識、例えば「テレビ」を捉えてみましょう。暇人の時は、テレビは最高ですよね。暇つぶしになるし。親という立場からすると、子供と一緒に見るかもしれませんし、子供にとって有害になるかもしれません。教員からすると、「テレビなんて見ずに、勉強しなさい」なんて言いたくなるかもしれません。

知識の意味

これはbeingによって、テレビというもののknowingが変わるということです。言い換えると、自分がどういう存在なのかという前提次第で、知識の意味が変わるという簡単なことです。

しかし、この簡単なことが教育現場では無視されがちなのです。知識はみんな同じものって考えてませんか?教科書使えば、生徒が誰でも毎回同じ授業ができると思っていませんか?ゆっきーさんの記事で「授業は生き物だ」という記事がありましたが、その通りです。生徒一人一人のbeingは違うのです。さらにいうならば、同じ人でもすぐに変わります。そのため、同じ教科書で一言一句同じ言葉を発したとしても、knowingは変わるのです

実は、このbeingについて考えることが存在論的であり、knowingを考えることが認識論的なのです。現代の教育の問題は、この存在論としてのbeingと認識論としてのknowingの分離だとあるデザイン研究者によって指摘されています。

最近、企業では「デザイン思考」というものが流行しています。これはアメリカのある企業や大学が作り出した手法なのですが、とっても便利なんです。便利ゆえに、誰でも気軽に使おうとするのです。beingを考えることなく。実は、このデザイン思考をデザイン教育を受けていない人たちが「使ってみたけど、うまくいかない、どうしたら良いか?」という相談を、私の仕事柄よく受けます。答えは簡単です。knowing(ツール)ばかり考えてないで、being(あなたたちは何者で、何が好きで、どんな人生を送りたくて、、、、)をちゃんと考えてください、ということです。本家本元のアメリカのある企業では、従業員がダブルディグリー(2種類の学問の学士号や修士号)を持った人が多くいて、このbeingをしっかり考えている人たちがそのツールを使うからうまくいくのです。

前回のブログでアクティブラーニングについて書きましたが、企業活動も教育と同じで、仕事に対して「アクティブ」でなければなりません。単に教科書をただ読む(どんなに熱心に読んだとしても同じですよ)状態と本を読んでデザイン思考というツールを使ってみるはknowingだけしか考えないのであって、beingにはノータッチです。どちらも高い確率でうまくいきません。

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