用意される教育プログラム

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1985年生。早稲田大学国際教養学部、米国Portland State Universityにて文化人類学専攻。 新卒でベネッセに入社。学校教育コンサルティングに関わる。新しい働き方・学び方創りに関わり、社外の活動としてスポーツ、キャリア教育、地方創生、途上国支援など複数のNPO、NGOの立ち上げに関わる。 世界経済フォーラム(ダボス会議)Global Shapers Communityメンバー。関西学院大学非常勤講師。

アジア、アフリカ、そして日本をフィールドに、さまざまな学びや気づきのきっかけを創る仕事をしています。日本というとても特殊な島国で生まれ育つという環境は、世界的に見るとやっぱりすごく特殊なんだと思うんです。

どんな教育が、教育プログラムが必要なのか、そんなことをかれこれ何年も、試行錯誤しながら考えてきています。

「どんなプログラムが」良いのかを考えてきた時間が長かったですが、最近では、「引き算」を大事にしています。足していくのではなく、引いていく。

日本では、紙もペンも先生もタブレットも教材もクラスメイトもクーラーも、というか本当にいろんな物が溢れていると思います。そこにまた何かを「追加」しようとしていっても、ある種の限界もあるのかなと思っています。

それならば、引き算をしようと。

例えば、正解、をなくす。
先生、をなくしてみる。
紙とペンをなくしてみる。もっと話すようになるかもしれない。
椅子をなくしてみる。学びは主体的になるかもしれない。

わかりやすさ、をなくしてみる。生徒は自分でもっと考えるかもしれない。
説明、をなくしてみる。生徒同士が説明しあうかもしれない。

わからないですが、引き算をするという発想を、個人的には大切にしています。

なぜ用意したいのか

とはいえ、今日はネパールでの素敵なフィールドワークに向けての打ち合わせをしました。どんなことがネパールで体験できるか、受け身ではないプログラムをどんなものが作れるか。ネパールならではのことって何か。

一生懸命考えて、一生懸命議論しました。それはそれで、いろんな発見や気づきがあったんですが、、、

ふと、再び思ったんです。

何かを準備して創り上げようとしすぎていないか、と。

こういう経験をすれば生徒はこう思って、きっとこう成長する。というのを「生徒たち」を一括にして考えてしまっているような気がしました。ネパールで●●の体験をすれば、みんなが■■になる、なんてことは、ないのかなとも思います。

仮にそうなるとしたら、大人からの無言のメッセージが出すぎちゃって、空気が読める生徒がそうなるように仕向けているのかもしれません笑。

計画をたてたり、狙いを明確にしたり、段取りをしたりするのはやっぱり大切です。でも、根底では、「生徒がリアルを体感し、自分と他者に向き合い、一歩踏み出す瞬間」というものを大事にしたいんだなと、そう自分のことを理解しました。

わかりやすく、再現性の高いものを創ったほうがいいかなーーーーと思ったりもしていましたが、これからは、あまりそう考えないようにしようかなと思います。再現性はなくとも、一期一会で、そのときそのときを大切にしていけたらなと思います。

用意されるのが当たり前に

日本では、教育に限らず、用意されるのが当たり前になっていることが多くあると思います。それが当たり前なので、仕方ないと思いますが、「当たり前の呪縛」から開放されることも、すごく大切なのかなと思います。

用意された環境の中でしか価値を発揮できないのは寂しい。

変化するためには、用意されていない環境に身を置くと、その違いが分かるのかもしれません。

じわじわじと、一緒に少しずつ。

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