外国人同士であろう

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1985年生。早稲田大学国際教養学部、米国Portland State Universityにて文化人類学専攻。 新卒でベネッセに入社。学校教育コンサルティングに関わる。新しい働き方・学び方創りに関わり、社外の活動としてスポーツ、キャリア教育、地方創生、途上国支援など複数のNPO、NGOの立ち上げに関わる。 世界経済フォーラム(ダボス会議)Global Shapers Communityメンバー。関西学院大学非常勤講師。

今日は、何を隠そう、人生の中でもかなり上位に食い込むくらい、感情が揺れ動き、イライラして、怒りの感情を実感した日でもありました。人間は、人間との関係によって、喜び、悩み、苦しむ。

それは、他人という人間との関係ももちろんあります。ただ同時に、「自分」との戦いで疲れたり苦しんだり悩んだりすることも、ものすごく多いように思います。

ただまあ今日も夜にこうやってOsmosis Lifeを書くことができるのは嬉しいなと、ありがたいなとしみじみ感じております。

怒り、を感じたからこそのことを、書きたいと思います。

話せば分かる、ものでもない

私は以前からも、「話せば伝わる」と思っていました。伝わらないとしたら、伝え方が悪いんだ、と。もちろん、受け手が悪いと言ってしまったら終わりだと思うので、受け手ではない、伝え手に課題があるんだ、そう思っていました。

だからこそ、「ん、なんか伝わっていないかも」と感じたら、そこからさらに例を出したり、いろんな話に展開したりして、「もっと詳しく」説明を追加していました。

ただ実際には、(たぶん)もっと根っこのところで理解されていないので、いくら説明を追加されたところで「分からない」「思考停止する」という状態になってしまいます。

じゃあ、話したって伝わらないのか、と言うと、、、、「少しずつ伝わって、いつか理解される」というくらいのものでしょうか。これまでに、体験したこと、経験したこと、実際に見て感じたことが違います。それなのに、それらをベースに抽象化した話が伝わるわけがありません。

そのためには、「体験を共有すること」「実際の情報や事実を共有すること」といったような、その人自身が体感することというのが、大切なのかもしれません。体感なくして、ちょろっと話しただけで全てが伝わるとしたら、それはそれで、おもしろくない人生です。

話せば伝わるんじゃない、体験しないと伝わらない、それは、悪いことではない、そう理解しています。

実際、みんな違う

なんとなくの感覚なんですが、「外国人」だと思って当てはめて考えてみると、わりと自然に受け止められるのかもしれません。外国人であれば、自分の気持ちが言葉をなくして以心伝心するとは、あまり思わないですよね。
外国人であれば、「この状況で空気よんで、こうするでしょ」みたいな暗黙の正解みたいなものは感じてもらえないですよね。
外国人であれば、、、、なんか認めてあげられると言うか、期待していないというか、柔軟と言うか、正解を求めていないんだと思うんです。

つまり、自分自身が相手をどういう存在だと捉えるかによって、自分自身の感情も変わる、ということが言えるのかなと思います。

その感覚が分かれば、それを、今後は身近な日本人に当てはめて考えてみてほしいなと思います。日本人と外国人は違いますが、それと同じように、私とあなたも違うと思うんです。

それなのに、「普通こうするでしょ」といった正解や同調性を求めるようなことに陥ってしまうのは、根っこで、「一緒」「同じであるべき」といった無意識の偏見があるのかなとも思います。

私とあなたは違う。話したって、すぐには理解されない。

だからこそコミュニケーションをとり、時間をかけて、互いに理解を深めていきたいですね。

じわじわと、一緒に少しずつ。

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