承認欲求を友達として受け入れる

ABOUTこの記事をかいた人

アバター

1985年生。早稲田大学国際教養学部、米国Portland State Universityにて文化人類学専攻。 新卒でベネッセに入社。学校教育コンサルティングに関わる。新しい働き方・学び方創りに関わり、社外の活動としてスポーツ、キャリア教育、地方創生、途上国支援など複数のNPO、NGOの立ち上げに関わる。 世界経済フォーラム(ダボス会議)Global Shapers Communityメンバー。関西学院大学非常勤講師。

いまとなってはもうほんとに多くの人に欠かせなくなったSNS。TwitterやFacebookは日本でのリリースは2008年なので、10年前ですね。私は2008年に大学を卒業したので、社会人になってからいまのSNSを使っています。

(分かる人には分かると思いますが、mixiとがGREEとか、MySpaceとか掲示板とか、なんだか懐かしいですね。いまもあるとは思いますが)

SNSにふれる時間が長くなってきたこととあわせて、「承認欲求」という言葉に触れることも増えてきたのではないかなと思っています。

私は、このSNSではないのですが、「途上国で活動したい」「貧困をなくすために活動したい」「持続可能な開発に関わりたい」といった学生さんと多く話す機会があるのですが、そのたびに、観察してきました。

承認されたいという欲求について、いろいろと考えて整理していることがあるので、今回はそれを書きたいと思います。

マズローの5段階欲求

心理学者アブラハム・マズロー先生(1908-1970)が生みの親とされる5段階欲求説をご存知ですか?

わかりやすい解説はこちらの記事参照

人の基本的な欲求は5段階のピラミッド構造になっていて、低次の欲求が満たされると、次の高次の欲求を満たしたくなる、というものです。人間も言葉や智慧や理性や社会的なルールがあるとはいえど、猿やゴリラやライオンと同じように(たぶん)動物ですよね。私たちには欲求があります。ただそれは、基本的には段階がある、ということですね。

日本のように、安心安全な国で、家族と一緒に住んだりコンビニやファミレスとか便利なお店があれば、寝て食べて身の安全を確保することは、満たされるようになりました。大学に所属したりサークルに所属したり、会社に所属したり、所属するという欲求も満たされ、孤独ではない環境にいる人も多いと思います。

そして、その次に登場するのが承認欲求。それらの欲求が満たされたら、「自分という個人/存在を認められたい」という個の欲求が芽生えます。

特に、日本では集団生活が重んじられたり、学校では目立ちすぎず同じようでいることが無意識的にも助長されてきた中で、ある種その反発として個として認められたい、という欲求は強くなるのかもしれません。SNSもそれを助長します。みんなが一斉に認められたくなったがゆえに、なかなか自分が認められたという感覚を得にくいのかもしれません。

自覚し受け入れてあげる

こんなときに、「承認欲求は悪い」とか、「承認欲求の塊」みたいな表現も増えてきているように感じています。私は個人的に、「承認欲求自体に良いも悪いもない、ただみんなが持っている欲求 」と捉えています。

たとえば、お腹がすいたり、眠たくなったり、不安を感じたり、とか、そういう基本的な欲求と同じ。誰もがもっていて、持っていないことなんてないと思うんです。

お腹がすくなんて下品で自己中心的だ、とか、
寝ずに働けないってことは、モチベーションが低い、とか、そういうのってないと思うんですよね。

つまり、一生懸命頑張っていたり、何かに取り組んでいたりする人ほど、「それを認められたい」とい欲求が出て、ある意味当然だと思っています。

自分自身が承認欲求があること、それが出てしまうことも、あまり悪いことだと捉えすぎず、「いまはそういう時期なんだな」とか、「承認されたいって素直に認めてみよう」とか、そういう自分の基本的な欲求を受け入れてあげることって、すごく大切だと思います。

承認欲求は悪い、だめなもの、としてしまうと、いつまでたってもあなたが基本的に持っている承認欲求は満たされないんじゃないかなと思います。

よくあるのは、「周りの人は承認欲求で活動している人も多いけど、私は違うんです本気なんです、本当に社会のためにやりたいんです」と一生懸命話してくれる人がいます。承認欲求を悪者だと思っているのかなと思います。

そういう人に対して、少し心配になるんです。自分を追い詰めるんじゃないかな、とか、頑張って人と違うようにあろうとしすぎて、リアルや本質を見失うんじゃないかな、と。

承認欲求自体は、悪者ではなく誰もが持っているものだと思うので、その欲求を認め、仲良く承認欲求くんと友達になる、くらいがいいのかなと思っています。

「社会のために」と思うなら

そうでないと、大事な場面で、話が噛み合わないケースがあるんです。いま、アジアやアフリカで、現地の先生や学校、政府機関やNGOと一緒にプロジェクトをしています。ありがたいことに、そこに関わりたい、インターンしたいという方にも会うことが多くあります。

そのときに、承認欲求を感じ認め受け入れた方であれば、その後の困難をも乗り越え、自己成長していくことができると思います。

一方で、承認欲求を遠ざけたり、そんな自分を客観視できていないときには、なんだかんだ言って「ヒーローになって承認されたい」という自分が出たり隠れたりして、悩み落ち込み、前に進めなくなるケースをたくさん見てきました。

取り組んだことや見えてきた課題について議論するときに、一方はただただ承認されたい(けどそれを言えない)、一方は次なるアクションを伝え動いていきたい、となり、かみあわないんです。

地味で泥臭いことを継続できなかったり、現地の人に信頼されなかったり、苦しいときに目をそむけてしまったり、素直になれなかったり。

社会のために、と思って行動したい、仕事がしたいと思う人にこそ、承認欲求は悪いものではないと受け入れてほしいなと思います。そのうえで、その承認欲求を満たしあい、次の欲求レベルへと進化させ、行動を持続拡大していってほしいなと思います。けっこう、手強いと思いますが、自分を認め、許すことでこそ、一歩すすめるのではないかなと思います。

もちろん、仲間や大切な人に対して、日頃からのコミュニケーションで、その人の存在を認めていることを伝え、関係を深めていくことが、大切です。自分もまだまだですが、日常のコミュニケーションこそ、大切にしていきたいなと思います。

じわじわと、一緒に少しずつ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です