日本で働いたり、アジアやアフリカ、途上国と言われるところで働いたりしています。
大企業と言われるところで働いたり、ビジネスに関わったり、NPOで働いたり、NGOとして国際協力に関わったりしています。
農村部や地方部ののどかな生活を見たり、その地域に仕事や産業がないがゆえの問題に向き合ったりしています。
地域や状況や課題はさまざまです。ただ、そこには人がいて、幸せのために頑張っていて、みんな「自分にとっての正義」のために、生きています。
一緒にご飯を食べれば笑顔になり、音楽が流れば踊り歌い、ハローといえばハローと返してくれる。
まるっきり違うこともあるけれど、なにか本質というかコアというか、人間らしさみたいなところは、どこにいったって感じることができます。目で見えることや、頭で考えたものが違えば違うほど、その本質的に「おなじもの」を感じることができたときに、うれしいし、感動するし、好きになるし、楽しいと、そう感じる自分がいます。
そんな中で、私が感じる「同じもの」、それは、世界は優しさと不安で溢れているということです。
優しさとの出逢い

海外に来た時、いろんな初めましての人に会います。タクシーの運転手さん、カフェのウェイターさん、警備員さん、お掃除係の方、ホームステイ先の家族、村の人、先生、政府間関係者、、、、いろんな初めましてがあります。
普通にしていれば、つながることのない人もいます。また、特に込み入った話をすることのない人も、います。
ただ、そこで、家族の話だったり、その人が置かれている状況の話だったりをすると、とたんにその人は、「警備員さん」や「お掃除係の方」、「政府関係者」という”ヒト”から、名前と人格と歴史と経験と感情を持った、あたたかな人に変わります。
同じ人なんです。でも、どう接するか、どうコミュニケーションをするか、どうオープンになるかで、ものすごく彩られます。
そのときに、どんなときどんな人にも、「優しさ」を感じます。そしてその優しさを感じることができたときに、ものすごく距離が近づきます。
お金を払ったときに笑顔になってくれる。
名前を覚えていてくれる。
お茶を出してくれる。
体調を気遣ってくれる。
あげればキリがないんですが、それぞれは、小さなことかもしれません。仕事をしているときにも、「真剣な会議・交渉」のときにはぴりぴりした雰囲気でも、移動中の会話や食事中、1対1になったときなど、場面変われば、コミュニケーションも変わります。
人は、人に対して優しい気持ちを持っていて、それはものすごく嬉しくあたたかいもので、みんなを安心して笑顔にしてくれる。その優しさは、人と人をつないでくれるものなんだと思います。
見えにくいけど垣間見える不安

その優しさは、本来みんな持っているし、いつだってほんとは発揮したいものです。でも、何かに一生懸命なとき、なにか責任を背負っているとき、焦っている時、失敗が許されない時、相手がどんな人か分からないとき、損をしたくない時、そういったときに、その優しさはやや見えにくくなるように感じます。
そのかわり、よーーーーーく観察したり、一緒にいると、その人からは「不安」という人間味を感じるときがあります。
強い口調で話をしている時、あれこれと迅速に指示出しをしている時、険しい顔で作業している時、一見すると怖さや難しさ、堅苦しさを感じますが、どこかで「不安」が人の中にあるように、そう感じます。
誰もが、優しさを持ち、誰もが不安を持つものだとしたら、人はその「不安」に対して「優しさ」を発揮してあげることができればいいのかなと感じています。
誰もが持っている優しさ。
誰もが持っている不安。
不安をオープンにし、それを認め許し、優しさで包み込む。
途上国でのチャレンジングなプロジェクトを行っているとき、そう自分に言い聞かせたいと思って書いています笑。
厳しさや批判よりも優しさを。
その背景にある「うまくいかなかったら」という不安を認め受け入れること。そうやって、頑張る人ほど、チャレンジする人ほど、意識的に、自分に人に優しくある、そういうことが大切なのかなと感じています。
相手がどうこうの前に、自分を、
っと、書いてみました。
なんでかというと、、、、、がーーーーーっと仕事をしていると、正直、いらっとしたり、へこんだり、なんであの人こうやねんと思ったり、冷たいなーとかいろんな「ヒト」に対しての感情が出てきます。
それに対して反応するのではなく、「人はみんな優しいし、不安になる」ということを理解すること。そして、自分から自分にも他人にも優しくすること。そういうスタンスをもって、世の中を優しくしていけたら、そうやって働いて、そうやって生きていけたらなと思って、これから頑張ろう!という気持ちを込めて、書きました笑。
じわじわと、一緒に少しずつ。
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